皇女和宮

皇女和宮ご降嫁とその生涯
(こうじょかずのみや)

孝明天皇(明治天皇の父)の妹『和宮』(1846生まれ)は6歳の時、有栖川宮 家の長男熾仁親王と婚約、以来学問を有栖川宮 家で学んだ。熾仁親王は17歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら6歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである。
和宮は成長して14歳を迎える頃、熾仁親王は25歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。

幕末に近いこの時代、「尊王攘夷」を旗印として倒幕を目指す動きが目立ち始めていた。国際的な問題も抱える幕府は 「公武合体」即ち、江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと考えた。万延元年(1860年)4月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川 第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。
兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮 家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。和宮は拒絶した。帝も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。
しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽萬宮を江戸へ送ろう。嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しよう」と、帝は関白九条尚忠に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが和宮の所へ届けられ、書面には「壽萬宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。 「私が我を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽萬宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」。和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。

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皇女和宮宿泊された上段の間は展示室として現存する

1861年11月22日(旧10月20日)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数 2万人を送ったという。宿場街の通過には前後4日間、行列の長さは50Kmにも及んだ。3-4万人の大行列と言われ、道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万にもなった。また、公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。
京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。

落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
大好きであった熾仁親王と別れて来た。 その人の面影を想い、 涙を流したことであろう。

同年12月6日(旧11月5日)塩尻で昼食の後、下諏訪宿に到着。和宮は当時本陣の一部であった『上段の間』に宿泊された。(この時提供されたと言われる料理は一汁四菜)。中仙道六十九次の宿場町のなかで唯一温泉地であった下ノ諏訪宿(現/下諏訪町)でどのような一夜を過ごされたのだろう。1843年『中仙道宿村大概帳』によると下ノ諏訪宿内家数は315軒1345名、うち本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠40軒であったという。

一行は12月15日、無事板橋に到着。それから約1ヵ月後それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。
翌文久2年(1862年)江戸城内で14代将軍 家茂と和宮の祝言が盛大に執り行われた。 ときに家茂、和宮共に16歳。(家茂の母は篤姫)。京風とは全く違う、関東の荒々しい若者を想像していた和宮は、家茂が眉目律々しい気品を備えた初々しい青年であったのでとても安堵した。
運命に翻弄された薄倖の和宮にとって唯一の救いは、夫家茂がとても思いやりのある立派な青年であったことである。家茂が、井伊直弼らの策謀にかつがれ、将軍の座についたとき、ようやく数え年13歳であった。しかし、聡明な家茂はよく自分の置かれた立場を理解し、自らの能力の限度いっぱいを以て難しい政局に対処した。自分自身、攻略の犠牲となって遥々関東に送られてきた和宮は、幕府方、朝廷方と立場こそ違うが、同じ政治という怪物に苦しめられているこの同年代の夫に深い同情を抱いたのである。家茂は、か弱い少女の身で馴れない異郷へ送られてきた花嫁に、青年らしく純粋ないたわりを示したのであった。和宮もまた婦道を弁え、いたらざる所がなかったという。

和宮にとって不幸なことに、苦心の公武合体策は結局実らず、倒幕運動は激しさを増していった。結婚の翌年3月と、その次の年の正月の二度に渡って家茂は入洛した。そして、慶応元年長州征伐のため大阪へ赴いた。 家茂はその年は江戸に帰れず、翌年7月脚気のため病床についた。 和宮は大層心配して、イギリス船で医者を送ったり、夜具や衣類、見舞の菓子などを届けさせたりした。しかし、その甲斐もなく家茂は慶応2年(1866年) 7月、20年の短い生涯を大阪城で終えたのであった。のちに家茂の遺骸は江戸へ帰った。そのとき、側御用取次平岡丹波から和宮へ西陣織物が届けられた。これは、家茂が征長出立の際に「土産は何がよいか」と尋ねたのに対し、和宮が「西陣織を」と、ねだったためである。形見となってしまった西陣織を抱きしめた和宮は、つと立って奥へ入って行き、そこで突っ伏して心ゆくまで泣いたのであった。

空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ

家茂没後、 和宮は江戸城にとどまり、その年の12月に薙髪して静観院宮と称せられることとなった。

時移り、風雲急を告げ、朝廷軍が江戸城を攻めるという際に、和宮は徳川家のために精一杯の努力をした。新将軍慶喜 追討軍の総帥が、和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王であったのも不思議な巡り合わせといえよう。和宮の尽力により、何事もなく、徳川第十五代将軍慶喜は政権を朝廷に返上した。ときに慶応3年10月14日(1867年11月9日)、いわゆる大政奉還である。和宮は慶喜の助命を嘆願、徳川の家名存続にも尽力された。

慶応4年(1868年)和宮は江戸城を出て清水邸に移られた。 その後、京都に5年間帰住の後、既に東京に移られていた天皇のお勧めにより、東京移住を決心された和宮は、明治7年麻布市兵衛町の御殿に入られた。和宮はここで3年有余を過ごされたのである。
和宮は数え年32歳になった頃より脚気の病になり、明治10年から箱根塔之沢の「元湯」に静養のため滞在、 一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたものの俄に衝心(の発作が起こり、この地で他界された。

(参考文献 阿弥陀寺 水野賢世氏 ほか)